音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(3)

今回は体(body)に関するピレシュ言葉を取り上げることにする。メルロ=ポンティは『眼と精神』の中で、「画家は自分の体を世界に貸し与えることによって世界を絵に変えるのである」というヴァレリーの言葉を引いているが、ではピアニストはどうなのであろうか。

なお、字幕の翻訳では話を正確に捉えることは無理なので、今回は元の言葉に即した訳を試みることにする。

♦ ピレシュいわく。――今日ではピアノは大ホールで大きく響くように作られています。つまりピアノという楽器は独りでに(by themselves)音を出すように作られているのです。近頃私はピアノを弾くのが以前よりずっと難しく感じるようになったのですが、それは年を取ってキャパシティが低下したせいだけではなくて、ピアノが奏者に依存しない楽器になってしまったことにその原因があります。かつては、誰もが自分で響きや色彩を創出するのでなければなりませんでした。歌いながら音を生み出し音を伝えるには、どのように自分の体を使ったら良いのかを学ぶ(learn how to use your body)のでなければならなかったのです。

♦ ピレシュはまた次のようにも語っている。――音は天からやって来るものではないし、頭脳からやって来るものでもありません。音は自分の体から(from your body)やって来るのです。従って、私たちの体はそれぞれ違っているので、私たちの音はそれぞれ違うのです。私たちは楽器で音を生み出すのではありません。そうではなくて、歌手と同じように自分の体で(with our body)音を生み出すのです。とはいえ、内部に楽器を持つ歌手とは異なり私たちは外部に楽器を持つので、楽器とコミュニケーションすることによって自分自身の音が楽器を通して存在するようにすることを学ぶのでなければならないのです。

♦ さて、以上のようにピレシュは、音は自分の体からやってくるのであり、ピアニストは歌手のように自分の体で音を生み出すのであると語っているわけであるが、これは自分の体が楽器になり、楽器が自分の体になるということである。とすれば、「ピアニストは自分の体を楽器に(そして世界に)貸し与えることによって、世界を音楽に変えるのである」と言うことができるであろう。(続く)

(追記)

顔の表情やバレエやダンスのことを考えると最も分かり易いのであるが、身体というのは表現体(何かを表現するもの)であり、しかも、それによって他のものが表現体となり得る基本的な表現体である。つまり、自分の体で何かを表現することのできない人は、音楽を演奏したり美術作品を制作したりすることができないと考えられるのである。

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(2)

今回は自由と制限をめぐるピレシュの言葉を取り上げることにする。

♦ (ピレシュいわく)「完全な自由か完全な秩序(completely free or completely strict)。どちらかの選択ではない。一定の秩序を保ちながら自由にしていいの。楽譜に書かれた制限を理解していれば、その中で常に自由でいられる。人生もそうよね。節度を守れば好きにしていいの。楽譜という制限を受け入れ、作曲家に敬意を払い、作曲家が求めているものを守れば、あとは自由。なんでもできる。」

 【コメント】これは実際に若者を指導する中でのピレシュの発言であるが、字幕の翻訳からその意味するところを正確に読み取ることができるかどうかは大いに疑問である。ピレシュは何を言っているのか。

♦ 演奏者はきちんと楽譜通りに弾くべきなのか、それとも自分の思いのままに弾くべきなのか。strict(厳格)であるべきなのか、それともfree(自由)であるべきなのか。――ピレシュが言うには、全面的にfreeであるか、全面的にstrictであるか、どちらを選ぶかが問題なのではない。「制限=楽譜を正確に知る(know exactly)」ならば、自由に演奏することができるのである。   

♦ これは逆に言うと、制限=楽譜を正確に知るのでなければ、自由に演奏することはできないということである。strictであることは自由を犠牲にすることなのではない。それはむしろfreeであることの条件なのである。一般に、自由であることは制限が課せられないことであると考えられているが、しかし良く考えてみよう。制限がなければ自由は空転してしまうのである。制限があるからこそ、自由は内容を持つことができるのであり、内容を深めることができるのである。

♦ ところで、そもそも制限を守るとはどういうことなのであろうか。それは単に、楽譜を勝手に書き換えたりしないということなのではない。では、どういうことなのか。ピレシュは「制限=楽譜を受け入れ、作曲家に尊敬の念を抱く(respect)ならば」という言い方をしている。制限=楽譜を遵守することは、実は作曲家との人格的・内面的な交わりなのである。ということは、制限を守ることは、それ自体、自由が深い内容を持つことなのである。         

♦ 創造的な演奏においては、このように自由と制限とが合一する。そして、自由と制限とのこうした合一こそが、本来の意味でのフォルム、即ち生けるフォルムなのである。

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(1)

 ♦ ポルトガル出身のピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュ(1944生)が、6月10日のNHKの番組に登場した。1970年代にモーツァルトのレコードを聴いて以来ピレシュ(昔はピリスと呼んでいた)のことは一応知っていたが、彼女は特に気になるピアニストではなかった。ところが、今回の放送を視聴して、認識をまったく新たにしたのである。

♦ ピアノの演奏と音楽に関する話。前者は後者の理解を助け、後者は前者の理解を助けるものであった。そして分かったのは、彼女にあっては「音楽する」ことがそのまま「哲学する」ことになっているということである。真の音楽家は必然的に哲学者になるのである。

♦ そこで、彼女の言葉の幾つかを、それらに簡単なコメントを加えつつ紹介することにしたい。なお、テレビの字幕は読みやすさを最優先にした訳であって、元の言葉を忠実に再現するものではないが、ここでは字幕に従うことにする。

♦ (ピレシュ)「今は音楽ビジネスやコンクールばかりが注目されます。芸術の存在余地がない、表面的なものばかりです。若者たちはそこから逃れられないと思い込んでいます。でも、そんなことはない。彼らは自らの本質(their own nature)をとことん探るべきなのです。芸術や創造の源、つまり音楽の根源を探求せねばならないのです。」

 

【コメント】商業主義の世界においては、多くの人に受けるものしか求められない。また競争主義の世界では点数化し得るものしか問題になり得ない。そこで若者たちも、世間の尺度や評価者の基準に良く合致する演奏をしようとする。しかしこのような演奏は、たとえ表面的には面白く個性的なものであろうと、創造的な演奏ではあり得ない。他人の眼の奴隷になり、自分を飾ることしか考えず、自分自身の魂に問いかけることのない演奏が、創造的な演奏であるわけがないのである。というのも、創造の源、即ち音楽や芸術の源(source)は、他ならぬ自分自身の自然本性(nature)であるからである。

ピレシュは、自分を見失ってしまっている若者たちを何とか覚醒させようとしているのである。(続く)

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その8

♦ いつでも好きな時に透明人間になることのできる魔法の指輪を使って、一介の羊飼い(ギュゲス)がついに王にまで上り詰めるという「ギュゲスの魔法の指輪」の話は、プラトンの『国家』篇に出てくるのであるが、人目を逃れ懲罰を免れさえすれば何をしてもよいのだという思いは、もしかして太古の昔から少なからぬ人間の本心なのであろうか。そうであると軽々しく断定することはできないが、しかしそれはともあれ、今の日本国政府では、悪事が暴かれ嘘がばれても平気の平左である、ギュゲスの上手を行く恥知らずが権力をほしいままにしているということは確かであろう。

♦ 恥を知らないということは神を畏れないということであり、神を畏れないということは倫理を無意味なものとしか感じないということである。前回の投稿(6/1)で「神は死んだ」という言葉に触れたが、神というのは倫理や価値の超越的な要石なのであって、神が死んでしまえば倫理は死んでしまう。即ち倫理は近代法と同じく単なる人間どうしの取り決めであることになってしまい、人の生き方の根本に関わるもの(魂の問題)ではなくなってしまうのである。(因みに、私はかつて大学で研究倫理委員会の委員を務めたことがあるが、この委員会では何と研究倫理は個人情報の保護等の問題でしかなかった。大学においても倫理はとうに死んでいるのである。)

♦ とはいえ、神を殺さなければそれでよいというわけではない。無自覚的で無批判的な信仰は必ず党派的な信仰になり、権力闘争と結びついて必ず戦争を引き起こす。実際、宗教は歴史上大きな戦争を何度も巻き起こしたのである。日本人は気安く無神論という言葉を使うが、無神論とは本来、神との壮絶な闘いであり、覚悟を要する賭けである。が、無神論のことはともかくとして、科学万能主義にかぶれた人間による浅薄な宗教批判とは異なる、まっとうな宗教批判が為されなければならない。(人は実は神を欲しがっているのであり、神と対立する民主主義という理念も、かつての天皇のように神格化され盲信される恐れがある。)

♦ というわけで、信仰と宗教批判とを何とか両立させなければならない。超越と超越批判、別の言葉を使うと他律と自律は、如何にして両立させることができるのか。――私はこのような問題意識の下にデカルトの「高邁」を考えているのであるが、ここで一つ指摘したいことは、デカルト形而上学における「神の観念」は、〈私〉の内にあるものでありながら、同時に〈私〉を無限に超え出るものであるということである。(続く)

 

古楽をめぐって:音楽と時間

昨夜はマラン・マレの生誕を祝うコンサートを聴きに出かけた。茗荷谷のラ・リールは音が柔らかく響き、余韻まではっきり聞こえる、とても良い会場だった。演奏者の方々もバロック音楽の醍醐味を十分に味わわせてくれた。

♦ さて、ここからは哲学的考察である。――私にとって古楽の魅力はその高雅さにある。高雅さというのは超越が生きていた時代、神が生きていた時代にしか存在しないものである。やがて、「神は死んだ」(ニーチェ)という余りにもよく知られた言葉によって象徴される、神は虚構であるとする超越に対する批判がヨーロッパを席巻することになり、芸術には高雅さが見られなくなるのである。しかし、歴史の流れとしてそれは仕方のないことであるとして、私は超越批判は超越の単なる否定ではないという観方をしたい。即ち、超越を批判することは、超越を単に殺すことではなくて、新たに/改めて超越を生きさせる(即ち我々が超越によって生きさせてもらう)ことへの契機である、という観方をしたいのである。

古楽の魅力は高雅さと共にその古さにある。古い音楽は取り分け、時計によって計られる時間とは異なる本来的な時間を経験させてくれるのである。それはどういうことなのか。私はもちろんマラン・マレが生きていた時代には生きていなかった。しかし我々は音楽によって、一度も体験したことのない古い時代へと立ち返ることができるのである。では、バロック時代のような古い時代へと立ち返るとはどのようなことなのであろうか。それは年表に向けられた眼差しを左方向に水平移動させることではない。我々は例えばマラン・マレを聴きながら、現在から(懐かしい)過去へと垂直方向に降りて行くのである。

♦ そして、バロック音楽を演奏したり聴いたりすることは、現在から過去へと下降することであるだけではなくて、同時に、過去から現在へと上昇することでもある。現実態としての音楽表現は、現在から過去へと下降し、過去から現在へと上昇する、現在と過去との間の往還である。

♦ ところで、こうした過去との交流、即ち垂直的時間=本来的な時間を可能にするのは、脳ではない。脳というのは物質であり、物質というのは、過去を保持する(記憶する)ことをせず、常にその瞬間その瞬間にしか存在しないのである。過去との交流が可能なのは、我々の生が――我々の意識が、と言ってもよい――絶えず過去を過去として保持しつつ(未来を目指して)新たな現在を迎えるからなのである。

森有正「パリに住んで:思考を深めた21年間」

森有正(1911~76)という人はオルガンでバッハなどを演奏していた哲学者であり、「思索の源泉としての音楽」というレコードもあるが、どうして急にこのような話を始めたのかと言うと、机の引き出しの中を整理していたら、茶色に変色した一片の新聞の切り抜きが出てきたからである。切り抜きは森有正の「パリに住んで:思考を深めた21年間」というコラム記事である。新聞の日付は1971年9月23日となっている。私は森有正の著作は割と最近になってから少し身を入れて読んだのであるが、この半世紀近く昔の切り抜きを改めて読んで驚いたのは、自分の趣向と感受性が基本的に若い時から少しも変わっていないことである。

哲学についてほとんど何も分かっていなかった学部生の時に気に入ったこの記事から、幾つかの言葉を書き抜いてみる。

♦ 私にとって重要なことは、このパリ滞在の間に、《私自身》の思索が始まったということである。

♦ あのけたたましいジャーナリズムやスノビズムの渦巻きから完全に隔離されて、考え、思索を深めることが出来たのは、私にとって決定的なことであり、私の精神的《かたち》は揺るがしえないほどしっかりと確立されたと思っている。

♦ 専門のフランス十七世紀哲学の研究は思ったようには進まなかったが、デカルトパスカルをみる目が全然変化した。そういう古典的大家が分解し始め、自分の経験が思想に転化する過程に吸収され始めて来た。これは私にとって重大なことであった。・・・それは我々の中に見出され勝ちな一辺倒的考え方の逆であり、自分の「経験」を生かす道である。一辺倒的考え方は、他に傾倒するようでありながら、実は他に依存して自分を支えようとする態度であり、また他によって自分を飾ろうとすることでもある。

♦ 今日(九月十九日)、ICUの大学の教会で、チェコオルガニスト、パウケルト氏の「フーガの技法」(バッハ)をきいた。私は、人間の「経験」というものは、思想でも、音楽でも、《どこでも》同じ道をたどるものだということを深く感じた。

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その7

 人を蔑んではならない。人を差別してはならない。そのように言われる。しかし差別意識を無くすにはどうすれば良いのであろうか。差別意識には原因がある。即ち差別意識は(例えば或る特定の国に関する)偏見=歪んだ認識から生まれるのである。従って、この偏見を是正するならば差別意識を無くすことができる。確かにそうである。しかしすんなりと自分の誤解を認めてあっさりと差別をやめてしまう麗しい人間は少ないと思われる。多くの者はむしろ自分の偏見にあくまでも固執するのではないか。それは何故かと言うと、多くの者の場合、偏見が差別意識の原因なのではなくて、逆に差別意識が偏見の原因になっているからである。
 差別意識を克服することは生易しいことではない。人間には、他人を蔑むことによって自分の優位性を確認したいという、やみ難い衝動があるからである。従って、傲慢な人間になるのは容易いが、謙虚な人間になることは難しい。謙虚を装うのは難しくないが。
 さて、人間は気高く生きなければならないというのが、デカルトからのメッセージである。但し、気高さ(高邁さ)とは傲慢さではない。気高く生きることは謙虚に生きることに他ならないのである。『情念論』155節でデカルトは、最も高邁な者は最も謙虚な者であると述べ、そして続いて高邁な者の謙虚さについて次のように語る。
人間の本性(ほんせい)の弱さについて反省し、自分がかつて犯し得た過ちあるいは将来犯し得る過ち(これらは他の人々が犯し得る過ちよりも小さくはない)について反省することによって、他の誰に対しても自分の方を優位に置くpréférerことをせず、他の人も自分と同じく自由意志を持つのであるから、自分と同じく自由意志を善く用いることができる〔つまり高邁であり得る〕と考える、――このことにのみ、高邁な者の謙虚さ、即ち徳としての謙虚さが存するのである、と。
 デカルトは人間というものを信じていた。つまりは神を信じていた。但し、この信仰はあくまでも誠実な懐疑を経由した信仰である。(続く)

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その6

♦ 最近、ニュースや報道番組でセクハラやパワハラのことが大きく取り上げられているが、確かにハラスメントについての理解を広めるための啓蒙や研修を行なうことが必要であろうし、また被害を減らすための何らかの法的対策を講じることも必要であろう。しかしそれだけでは根本的な解決にはならないような気がする。つまり、それだけでは懲罰や非難を恐れて善人を装う者つまり偽善者が世の中に更に増えることにしかならないのではないかという気がするのである。一方、道徳的なお説教が虚しいことも分かっている。では、どのようにして人を差別し人を見下す心性を根治することができるのであろうか。――この課題こそが私の関心事であり、またデカルトの高邁についてこうして連続して論じていることの理由の一つでもあるのである。

♦ さて、既に先の投稿(4/17)において見たように、『情念論』153節によれば、高邁な人とは、

  1. 意志を善く用いるか悪く用いるかということのみが、人が褒められたり咎められたりする理由でなければならないということを「認識し」、
  2. 自分の意志を善く用いようという〈確乎不変の決意〉を自分自身の内に「感じる」、

そのような人なのであるが、続く『情念論』154節では、このような「認識」と自己「感覚・感情」を持つ人(つまり高邁な人)は、自分だけではなくて誰でも皆この「認識」と自己「感覚・感情」を持つことが<できる>ことを容易に確信するということがまず言われる。

♦ どうして誰でも皆<できる>のか。それはデカルトが言うには、件の「認識」と自己「感覚・感情」を持つことにおいて、人は他人にまったく依存しないからである。それに対して、富や名誉を得ることは自分だけではできないのであり、それは他人に依存することである。従って富や名誉を得ることは誰にでも<できる>ことではない。

♦ 以上のことからデカルトは、件の「認識」と自己「感覚・感情」(=自尊感)を持つ人は、「決して誰をも軽蔑しない」と結論する。(続く) 

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その5  

 

♦ 久しぶりに池田晶子(1960-2007)の本を開いてみた。

「学内政治や同僚の悪口に飽きない方々は、驚きを所有せずに哲学を生業(なりわい)としている方と思って、皆さん、まず間違いありません。「悪い」と言っているのではない、「好かない」と言っているのだ。・・・哲学することが生き方を規定しないような哲学の仕方は、少なくとも私にはちっとも面白いと思われない。」(『考える人』)

池田氏と同じく私にも「ちっとも面白いと思われない」。というより、私に言わせれば、そもそも哲学することは生き方を規定するような仕方でしかできないのである。生に対する感触を持たず、「生の吟味」(ソクラテス)を怠る者が、どうして哲学することができるのであろうか。「魂の世話」を怠り、嘘をつくことを何とも感じない人間が、どうして真理を探究することなどできるのであろうか。

♦ さて、デカルトの言う「高邁」は、人間をして、正当に自分を尊敬し得る極点にまで自分を尊敬するようにさせるものなのであるが、この自尊は他人を蔑視させるものではない。それどころか、他人への蔑視を妨げるものである。それはどういうことなのか。――この問題に入る前に、高邁の定義をもう少し見ておかなければならない。

♦ 『情念論』153節によると、高邁な人とは、

  1. 意志を善く用いるか悪く用いるかということのみが、人が褒められたり咎められたりする理由でなければならないということを認識し、
  2. 自分の意志を善く用いようという〈確乎不変の決意〉を自分自身の内に感じる(sentir)、

そのような人なのであるが、b. に注目して言うと、高邁とは自分自身の内にある、自分の意志を善く用いようという〈確乎不変の決意〉に対する“sentiment”――「驚き」「尊敬」の感情――なのである。つまり高邁な人は、自分自身の内にある――しかも自分を超越する――件の確乎不変の決意に驚き、その決意に尊敬の念を抱く者なのである。(続く)

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その4

♦ 悪事を働きながらいささかも罪悪感を抱かない人間、羞恥心というものがまるきりない人間が、社会の片隅ではなくて社会の中枢でのさばっている。これはかなり深刻な事態である。一体どのようにして、そのような人間が生まれるのを防ぐことができるのであろうか。最近話題になっている教育勅語や道徳の教科書によってそれを防ぐことは可能なのであろうか。否、恐らく無理であろう。では、罪悪感や羞恥心を欠いた人間にならないためには、一体どうすればよいのであろうか。

♦ まずは「善」の感覚に目覚めそれを育てることが必要であろう。しかしこのように言うと必ず、「善とは何ですか?」という質問を受ける。確かに善というものを何か抽象概念のようなものとして受け取るならば、善は漠然としたよく分からないものであることになる。しかし、である。「善とは何か」という質問は、或る意味で「美味しいとは何か」という質問と同じなのである。つまり、(既にこの段の冒頭で「善」の感覚という言い方をしたが)善とは食べ物の美味しさと同様に感覚的なものなのである(真も善も美も、心が求め、心が感じるものである)。もちろん倫理的な善は食べ物の美味しさとは違う。しかし我々は味覚を洗練させるのと同様にして、善を味わう感覚を磨くことができるのである。

♦ 罪悪感や羞恥心を欠いた人間にならないためには、まずは人間関係や読書などの経験を通して善を感じる感覚を育てなければならないのであるが、次に必要なのは意志を善く用いることを習得することである。意志というのは単なる願望ではない。それは行動に直結している。つまり、何かを意志しながらそれを実現する行動に出ない、ということはあり得ないのである。また、意志の善悪は行動を賞賛し非難する基準である(デカルトはこのことを強調した)。即ち、たとえ人助けなどの善行を行なっても、それが善い意志(意志の善い使用)によるのでなければ決して褒められないのである。(続く)

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その3

★ ところで、財産や名誉はともかくとして、どうして知力や知識はそれを所有する人に「本当に」属するのではないのであろうか。どうして優れた知力や豊かな知識は自尊心を抱く「正当な」理由ではないのであろうか。デカルトの言うことはおかしいのではないであろうか。――否、そうではない。知力や知識といったものは善用もできれば悪用もできるものであるが、そう考えてみると、知力や知識そのものではなくて、それらを善用したり悪用したりするようにさせるもの、それこそが当人に「本当に」属するものなのではないであろうか。然り。そうなのである。従って、知力や知識やその他諸々は自己を敬う「正当な」理由ではないのであり、それらを理由に自分は偉いと思うのは不当な自惚れなのである。

★ では、知力や知識を善用したり悪用したりするようにさせるものとは一体何なのであろうか。それは意志である。知力や知識が善用されるか悪用されるかを決めるのは意志なのである。しかし意志それ自身も善用したり悪用したりすることができるのではないであろうか。その通りである。では、意志それ自身の善用・悪用を決定するものは何なのであろうか。実はそれも意志なのである(デカルトはそうはっきりとは述べていないが)。意志自身が意志を善用するか悪用するかを決めるのである。意志が意志自身を決定するのである。

★ しかし、意志をして(意志自身の善悪に関して)自己決定させるものは何なのであろうか。デカルトはそのことについてはまったく語っていない。しかし私にとってはそれは最も重要な問題なのである。この問題には後で改めて立ち返ることにして、差し当たり確認しておきたいことは、「本当に」自分に属するのは(知力や知識ではなく、ましてや財産や名誉ではなくて)意志をどう用いるかという意志の用い方であり、それのみであるということ、従って人が己れを尊敬する「正当な」理由はただ一つ、意志を善く用いようという意志――決意――のみであるということである。(続く)

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その2

 別にどこかの総理大臣のことを念頭に置いているわけではないが、傲慢な人間というのは相手に応じて傲慢であったり逆に卑屈であったりする。傲慢は本当の自信を伴わない自尊心である故に、そういうことになるのである。本当の自信を伴う自尊心は決して卑屈に転じることはない。それは(卑屈に転じるのではなくて)それ自体が謙虚さでもあるのである。では、この真の自信を伴う自尊心、それ自体が謙虚さでもある自尊心とは、如何なるものなのであろうか。それを明らかにするために、デカルトの言う「高邁」なるものについて考察を試みることにしたい。
人はどのような理由で自尊心を抱くのであろうか。総理大臣だからであろうか、有名大学を出ているからであろうか、頭がいいからであろうか、特殊な技能を有するからであろうか、勲章を受章したからであろうか、資産家だからであろうか、容姿が美しいからであろうか・・・。デカルトは財産とか名誉とか知力とか知識とか美しさを例に挙げるのであるが、何とデカルトによればこうした価値は(それを所有する人に属すると言えば属するのであるが)本当にその人自身に属するのではないのである。ということは、名誉や知力といった価値は本当の自信を人に与えるものではないということであり、そうした価値は自尊心を抱く正当な理由ではないということである。
では、本当にその人自身に属するものとは何なのであろうか。本当の自信を人に与える価値とは何なのであろうか。自尊心を抱く正当な理由とは何なのであろうか。――それは或る<確乎不変の決意>なのである。(続く)

魂の響き

 ♦ 思いがけなくチケットをいただき、昨夜はロラン・ドガレイユのヴァイオリンを聴きに紀尾井ホールに出かけた(ピアノはジャック・ルヴィエ)。ドガレイユ Daugareil 氏はパリ管弦楽団コンサートマスター、そしてパリ国立高等音楽院の教授であり、かのサン=テクジュペリが所有していた1708年製のストラディヴァリウスを使用しているとのことである。演奏されたのは、プーランクラヴェルドビュッシー、フランクのVnソナタで、いずれも馴染みの曲だったが、これらがこんなに素晴らしい曲であるとは ・・・ 知らなかった。特にsotto voceで歌うところが印象的で、まさにフランス音楽の神髄を教えてくれるコンサートだった。

♦ チラシには大きな文字で「魂の響き」とある。これはありふれたフレーズかもしれないが、この言葉について少し考えるために、パリ在住のピアニスト船越清佳氏によるドガレイユ氏への独占インタヴュ(2015年9月)記事を参照してみよう。このインタヴュでドガレイユ氏は、コンサートマスターとして若い頃から数々の世界的指揮者と共に演奏したことに言及し、彼らから音楽的なアドヴァイスを受けたことを強調している。指揮者というのは楽器の演奏家と違って、「演奏の技術ではなくて、音楽そのものを尊重する耳を持っている」と氏は述べているが、(ヴァイオリンの巨匠のレッスンからは得られない)音楽的なアドヴァイスこそが、氏にとって貴重なものなのである。氏が言いたいのは、音楽に奉仕する心、音楽に対する謙虚な姿勢である。

ドガレイユ氏が言うには、まずテクニックの問題を解決し、その次にテクニックが及ぶ範囲で音楽的探求を行なうというのは「本末転倒」である。「感動」よりも技術的な確実さを優先させてはならない。感動というのは「自由さ、大胆さ、ファンタジーからこそ生まれる」からである。ドガレイユ氏に代わって私の考えを述べると、演奏技術が進歩することによって感動が生まれるということはあり得ない。もちろん感動を血肉化する(あるいは呼び起こす)ためには然るべき相応の演奏技術が要求されるのであるが、自己目的化した技術から音楽が生まれることはあり得ないのである。技術優先の姿勢からは音楽なき演奏、「魂の響き」なき演奏しか生まれないのである。

♦ 実は哲学研究についても同じようなことが言える。哲学研究者は哲学そのものにはまるで関心がないかのようである。つまり自分の研究にはどのような哲学的意味があるのかを大所高所から問うことをまったくせずに、専門領域というタコツボの中でテクニカルな(即ち専門的=技術的な)研究に勤しんでいるのである。しかし「哲学とは何か」という根本的な問いから逃避し続け、哲学というものに対する責任感を欠いている限り、哲学なき論文、「魂の響き」なき論文しか生み出すことができないことは言うまでもない。 

♦ 私は昨年、或る研究計画に関して次のような論評を書いた。――ヘーゲルの論理学における「概念は規範性をもつ」という主張を再構成するというようなことは、テクニカルな課題であって、哲学的な課題ではない。哲学的な課題とは、最近の研究動向、学会の動向(流行)に迎合するようなことは一切せず、また他人のふんどしで相撲を取るようなことは一切せずに、みずからの力と責任で、ヘーゲルの論理学の本質=根本的問題性をしっかり摑み取ることであり、そしてその上で、(例えば概念の規範性に関する)他の諸研究やアリストテレス主義の復権などに対して批判と評価を行なうことである。

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その1

♦ 偉そうに出しゃばり、そのくせ無責任で、狡賢く羞恥心のない人間、このような〈傲慢で卑劣な人間〉は決して稀な存在ではない。「憎まれっ子世に憚る」と言われるが、そのような人間は各分野で幅を利かせている者の中に比較的多く見られるのであろう。しかし、どうしてこのような人間が出来てしまうのであろうか。自尊心という観点から考えてみよう。

♦ 本物の聖人でもない限り、人間は何らかの自尊感情なしには生きることはできないように思われる。褒められて嬉しくない人間はいないとよく言われるが、自尊感情は生きるために不可欠な活力であると考えられる。――1865年にイギリス領インド帝国に生まれたラドヤード・キップリングの本に、インドの密林の中の小屋に独居している森林監督官のことが出てくるのであるが、猛獣はともあれ他に人間はいないのであるから人目を気にする必要はまったくないのにも拘わらず、この森林監督官は毎晩夕食のために礼服を着用した。一体何のために正装したのか。それは世間から離れて独居することで「自己への尊重を失ってしまわないため」である。この森林監督官はイギリス社会の規範にみずからを従わせることで(これはあくまで一つのケースであるが)、立派な自分を確認し自尊心を保とうとしたのである。自由気ままというのは実は決して楽しくはない。人生を投げてしまった者は別として、自尊感情を何ら抱けないことはそれこそ耐えがたいことなのである。(因みに、ナショナリズムとは国のプライドと個人のプライドとが一致したものである。)

♦ しかし自尊感情というのは極めて危険なものである。自尊心に溺れると、人は他人を差別し見下し、不寛容で攻撃的になる。嘘をついたりデマを流したりすることも平気でできるようになる。つまり〈傲慢で卑劣な人間〉になるのである。自尊心の暴走を食い止めるには己れの自尊心を自覚することが何よりも大事なのであるが、しかし口で言うだけならともかく、本当に自覚することは非常に難しい。人は自覚をいわば拒絶するのである(これは精神分析における抑圧に類似した問題である)。

♦ 但し自尊感情は絶対に悪いものであるというわけではもちろんない。それどころか、人を寛容にする自尊感情があるのである。デカルトがそれを示している。(続く)

西部邁氏の最後の言葉

♦ 引き続きデカルトの決意(2)として、生き方の芯を成す決意に関して考察を試みる予定であるが、その前に、先日亡くなられた西部邁氏のことを少し考えておきたい。といっても、私は昔から氏に関心があったわけではない。わりと最近になって『生と死:その非凡なる平凡』など3冊ほどの著書を読み、またMXテレビの番組をこの何年か観ただけである。ただ、個々の主張内容のことはさておき、胡散臭い口先人間が多い知識人たちの中にあって、世間に嫌われることを厭わない稀有な人物として、また思考と人生とが不可分になっている稀代の人物として、一目置いている。

MXテレビの「西部邁ゼミナール」の最終回は、「西部邁先生の生前最後の言葉」というタイトルを付けられて1月27日に放送された。ここで吟味したいのは、この最終回の最後の部分である。西部氏は次のようなことを言った。――どうせ死ぬんだからデタラメな人生を送ろうかという考え方と、どうせ一回の人生だから自分でまあまあ納得できる人生にしようかという考え方の二つがあるが、自分のことを振り返ると、不思議なことに人間は後者の方を選ぶものなのである、と。――では、「デタラメな人生」ではない、「自分でまあまあ納得できる人生」とはどのような人生なのか? 

♦ 放送はここで一度区切りが入り、そのあと聞き手が、「人間は生きることそれ自体にではなく、より良く生きることにのみ本格的な関心を持つ奇妙な動物である」というオルテガの言葉を投げかけた。すると、西部氏は次のように応じた。――「より良く」に関心を持つのは、本当に人間だけである。ただ、「より良く」がこれまた難しい。宗教者なら簡単であって、神だ仏だと言っていればよい。しかし自分は宗教者ではない。宗教には大いに関心があるが宗教を信じたことは一秒たりともない。けどしかし、〔生の〕より良い規準・規範〔=模範〕があるはずだ。確かに一生かかっても「これですよ」と分かりやすくそれを示すことはできない。けれども、それを求めて、しゃべって書いてしゃべって書いてしてきた。ここまできて本当に幸いなのは、死ねることである。あと千年同じことをやれと言われても・・・ 。絶対に神や仏には近づけない。近づけば近づくほど神と仏は遠のいていくのである、と。

♦ では、「神と仏は近づけば近づくほど遠のいていく」とはどういうことなのであろうか? それは要するに、生のより良い規準・規範を〈求める〉営みには際限がないということであろう。人々に欠けているのはそのことの自覚であり、日本社会の愚かしい状態の原因もそうした無自覚にあると、氏は見ているようである。私はここでソクラテスのことを想い起こす。ソクラテスは自分には善美に関することは分からないと言い、更に、世の識者たちと違って自分はそれが分からないことを自覚していると言った。実は、善美というのは、それは分からないということが分かる時にこそ、本当に分かるものなのであり、然るべき探求・探究が為され得るものなのである。が、それにしても、分からないということを悟るのは非常に難しい。

♦ さて、話を戻して、西部氏の言う「自分でまあまあ納得できる人生」とはどのような人生なのか。その答えは以上の話で示されていると思う。