デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その1

♦ 偉そうに出しゃばり、そのくせ無責任で、狡賢く羞恥心のない人間、このような〈傲慢で卑劣な人間〉は決して稀な存在ではない。「憎まれっ子世に憚る」と言われるが、そのような人間は各分野で幅を利かせている者の中に比較的多く見られるのであろう。しかし、どうしてこのような人間が出来てしまうのであろうか。自尊心という観点から考えてみよう。

♦ 本物の聖人でもない限り、人間は何らかの自尊感情なしには生きることはできないように思われる。褒められて嬉しくない人間はいないとよく言われるが、自尊感情は生きるために不可欠な活力であると考えられる。――1865年にイギリス領インド帝国に生まれたラドヤード・キップリングの本に、インドの密林の中の小屋に独居している森林監督官のことが出てくるのであるが、猛獣はともあれ他に人間はいないのであるから人目を気にする必要はまったくないのにも拘わらず、この森林監督官は毎晩夕食のために礼服を着用した。一体何のために正装したのか。それは世間から離れて独居することで「自己への尊重を失ってしまわないため」である。この森林監督官はイギリス社会の規範にみずからを従わせることで(これはあくまで一つのケースであるが)、立派な自分を確認し自尊心を保とうとしたのである。自由気ままというのは実は決して楽しくはない。人生を投げてしまった者は別として、自尊感情を何ら抱けないことはそれこそ耐えがたいことなのである。(因みに、ナショナリズムとは国のプライドと個人のプライドとが一致したものである。)

♦ しかし自尊感情というのは極めて危険なものである。自尊心に溺れると、人は他人を差別し見下し、不寛容で攻撃的になる。嘘をついたりデマを流したりすることも平気でできるようになる。つまり〈傲慢で卑劣な人間〉になるのである。自尊心の暴走を食い止めるには己れの自尊心を自覚することが何よりも大事なのであるが、しかし口で言うだけならともかく、本当に自覚することは非常に難しい。人は自覚をいわば拒絶するのである(これは精神分析における抑圧に類似した問題である)。

♦ 但し自尊感情は絶対に悪いものであるというわけではもちろんない。それどころか、人を寛容にする自尊感情があるのである。デカルトがそれを示している。(続く)